学院コレクション

日本の宝飾装身具のあゆみ

●江戸時代の装身具

貴重な素材を使って装身具を作る「宝飾」の時代は、今から約300年前の1700年代初め頃から始まります。
江戸時代の宝飾素材には、メノウや水晶などもありましたが、人気が高かったのは、異国から運ばれてくるべっ甲とサンゴです。べっ甲は南海にしか生息しませんし、サンゴはまだ日本近海のものではなく、すべて地中海産の紅サンゴでした。これらは当時の人々にとっては、なかなか手に入れることのできない、あこがれの宝石でした。
地金は銀が主流。金は、たびたび発令された贅沢禁止令のために鍍金(ときん−めっき)や蒔絵(まきえ)の材料としてしか使えませんでした。江戸時代は世界でも例を見ないほど女性の髪飾りが発達した時代です。これらの素材を使って多種多様な髪飾りが作られ、女性たちのおしゃれ心を満たしました。 



●明治時代の装身具

明治時代になると、これまでの櫛や簪などの伝統的装身具に加えて、指輪などの西洋装身具も作られるようになり、本格的な宝飾の時代を迎えます。
日本で西洋式の宝飾品が作られ始めるのは明治10年頃からです。東京・上野で開かれた第1回内国勧業博覧会にはすでに指輪が出品されていますし、この頃に描かれた美人錦絵には、指輪をした女性も見られます。
明治16年に始まる鹿鳴館の時代には洋装に金のネックレスやダイヤの指輪という貴婦人も登場し、話題になりました。
帯留が盛んになったのは明治時代になってから。明治10〜20年代には彫金の帯留、明治30年代にはダイヤやオパールなど輸入宝石を用いた帯留が流行しました。こうした宝飾品の急速な発達のバックグラウンドになったのは江戸時代から続く彫金技術です。廃刀令(明治9年)以降は、江戸の彫金技術は新時代の宝飾品作りに生かされました。



●大正・昭和初期(1)ー和装の装身具


大正時代から昭和初期の和装の装身具で代表的なものは、やはり日本髪用の髪飾りと帯留です。しかし、同じ髪飾りや帯留でも、明治時代のものに比べ軽やかな作りものが多く見られます。
「和」のアイテムの中に「洋」のデザインが入ってくるのもこの時代の装身具の特徴で、金具部分を見なければ、ブローチかと思えるようなモダンな帯留も作られています。
洋風装身具を和装に取り入れるという大胆な試みもなされました。鎖をネックチェーンのように装った「首掛け式懐中時計鎖」や、腰部のペンダントともいえる「短鎖」と呼ばれた時計鎖など、その絶妙なコーディネート感覚は賞賛に値するでしょう。
流行の宝石はダイヤの他、ヒスイ、真珠、その他のカラーストーン。特に真珠は、大正中期以降、御木本幸吉によって開発された養殖真円真珠が和・洋両方の装身具に用いられ、大流行しました。



●大正・昭和初期(2)ー洋風の装身具

明治時代に始まった西洋式の髪形(束髪)に用いる束髪櫛、束髪簪が一般化したのは大正・昭和初期になってからで、べっ甲や金、宝石入りの他、セルロイドやアルミニュームを使った普及品も作られました。
指輪人気の高まりのなか、日本人らしい表現をした指輪も登場します。中でも、花のモチーフを宝石の台座に取り入れた「梅爪」「菊爪」「ききょう爪」などは、当時の傑作といえます。
関東大震災(大正12年)以降、洋装にネックレスというスタイルの女性も目立つようになりました。また、男性たちがネクタイピンや、カフス、バックルなどにこだわりを持ち出したのもこの頃です。
このように、日本人の生活に根付いた宝飾文化も太平洋戦争で一時中断。戦後は進駐軍向けのものからの復興となり、その歩みが活況を呈するのは日本の女性が再びおしゃれに目を向き始めた昭和30年代からです。




 
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